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2006年07月02日

●ショー・レビュー"Love" LVRJから

Las Vegas Review-Journal の記事から

 

 「さて、フォルクスワーゲンの爆発がバンドの解散を象徴しているってのを理解していた?」 とギル・ステクロアが新しいビートルズをテーマにした"Love"の公演の後に尋ねた。

 「え~っと、そうだよね。もちろんだよ。」実を言うと、私はまだクライマックスの曲「A Day in the Life」を思い返していた。

 

 有名な音楽は、ビートルズの音楽をベースとしたステージには必須のものである。大きな疑問は、どのようにそれが使ったかである。 シルク・ド・ソレイユの答えは、ジョン・レノンが友人であるタラ・ブラウンの交通事故死の後に歌詞を書いた時、 彼が意識的に関連させなかったことかもしれない。

 ショーの製作者ステ・クロアからのより早いヒントのおかげで、 私はレノンが17歳の時に彼の母親が車に轢かれて亡くなったことを知っていた。若い時に母親を亡くしたことは、 レノンとポールマッカートニーの間の強い絆となっていた。

 

 もの言いたげな夢のような母親的人物のフィギュア(Alevtyna Titarenko)は、「Love」において再生のイメージとなる。「A Day in the Life」において、彼女はベッドの中の幼い少年のもとへ舞い降りてきて、 彼を優しく包み込む。ヘッドライトの威嚇的な光に包囲される時、彼から引き離される。後に、 彼女が粉みじんに飛び散るフォルクスワーゲンに直面している時、私はそれを、 少年の心が現実の人生を克服した勝利であると呼びたかった。

 しかし、フォルクスワーゲンは正しいナンバープレート「281F」をつけて、「アビロード」からまっすぐに出てくる。ステ・ クロアの説明を補強するように、ビートル(フォルクスワーゲン)がショーを通じて飛び出してる。

 

 あなたは、ようやく「Love」 が内容の無い見た目に心地よいスペクタクルより以上のものでありたいと思っていることに気が付くだろう。 祝福と呪いが多くのチケット購入者が期待していることであり、また受け取ることの全てである。「Love」の前の「Ka」 のように街角から十分な大きさを持つ劇場へと向かうシルクの方針転換の試みは、 ショーの後に説明を求めるために監督の袖を引っ張ることができない人たちを失うことになるかもしれない。

 

 しかし「Ka」と違って、「Love」は短い注意持続時間を提供し、ほとんど失敗である。
元々のビートルズのファンは今では50代であり、 ポストMTV世代をターゲットとするトントンとたたみかけるアプローチによって心を動かされないかもしれない。 6月15日に見たプレビューでのマッカートニーの反応は、監督のドミニク・シャンペンに、 ところどころで速度を落とすように頼んでいたという噂はある。

 

 「Love」は、シルクがいまだ変化している企業であることを示唆する。それは、 一座の最も素晴らしい部分と最も弱い部分~あまりに長すぎる「Blackbird」の喜劇的取り扱い~の全てが同じ90分の中に織り込まれていることだ。 ほとんどの部分は、ビートルズのテーマとジョージ・マーチンと息子のガイルズによる低音をブンブンならすサウンド・トラックによって、 「Love」がストリップにおけるシルクが過度に知られすぎていることと戦う。

 フェリーニ風世界に迷い込んでいる目を丸くした普通の人であるキャラクター(Goos Meeuwsen)を現実化しないかもしれないというビートルズ・アングルによって新しい観客を引き付けるというのは、 ラスベガスのサーカスの大テント作品「Nouvelle Experience」(ストーリーにこだわらず、 ビジュアルのの主体性を重視する)に全面的に戻るというシルクのアイデアである。今回、サーカスの大テントの緊張は、 「Mr.Kiteのおかげである」。

 そして、風で運ばれる「ズーマニティ」の「Lucy in the Sky With Diamonds」(Evelyne Lamontagne)に憧れる設地している消防士(Valeriy Kharun)のバリエーションを見てきた。

 

 過去の作品において設定されていたような一連の曲芸を期待していた人々は、 実際スタントのためにショーが中断されることの少なさに驚かされるかもしれない。「Help」するため12フィートのランプウェイの急勾配を跳ぶローラースケーターの4人組は、 例外的なものである。

 

 シャンペン監督は、戦後の英国からヒッピー時代の終演に至るまで、 ビートルズの歌の歌詞によって作られたキャラクターからビートルズの伝記を引っ張り出すために、より深めていこうとしている。

 アカペラによる「Because」が爆発して 「Get Back」へとなるとき、 それは最初に宣言される野心的な課題である。

Let It Be」 コンサートを示唆する屋根の上で紹介されるキャラクター達は、第2次世界大戦の空爆の音の中で瓦礫へと崩壊する。終わりは始まりである。

 

 ほとんどのシルクのショーに迷い込んで行きつ戻りつしている奇抜なキャラクター達は、文字通り、サージェント・ ペッパー(Rodrique Proteau)、エレノア・リグビー(Silvia Fontoura Aderne) 、 マッケンジー神父(Eugene Brim)である。ビートルズ自身(俳優によって演じられる)は、 二つのパフォーマンスエリアに降りてくる背景幕上あるいは丸い劇場の内側を取り囲む巨大なスクリーン上にシルエットとして現れては消える。

素晴らしい4人組は、スタジオでのおしゃべりの録音には入らなかったものや、生ラジオパフォーマンスへの導入などのおかげで、 抽象的な物語を提供する。

 

 「レポリューション」 における躁病的なトランポリンのふざけのようないくつかのシークエンスは、少なくともシルクにとっては、わざと簡単にすぎる。 会社のより遠まわし

に表現され、喚起する美は、「While My Guitar Gently Weeps」における落ちてくる何枚もの紙の中央で浮かび上がるソロ・ダンサー (Charlotte O'Dowd)である。彼女は、若いエレノア・リグビーか?車の中で頭を吹き飛ばしたを不幸な男は誰でも悼むために残していくか?

 

 貴方は、監督に質問をしたほうが良いだろう。あるいは、もう一度ショーを見なさい。 シルクも心の中ではそう思っていると確信しているし、「Love」はあなたに機会をあたえるために、きっと長期間公演する。

 

 LVRJのエンタテイメント関連の記事でおなじみのマイク・ウェザーフォード氏による「Love」のレビュー記事です。

 今回は表現が非常に遠まわしなためでしょうか?訳していても、いまひとつ何を言っているのかよくわからない部分が結構ありました (汗)訳している私の英語力のせいだと思いますので、「?」と思われた方は、ぜひとも原文でお読みくださいませ。

 誤訳部分がありましたら、ぜひご指摘くださいませ。

 

 レビュー記事を読む限りでは、「なんかよく解らん」というのが感想のようです(汗) もともとがビートルズの歌詞がついている歌をベースにしているために、歌詞と演技との関連を考えてしまって、「??」 というふうになるんでしょうね。

 監督が何を意図して、そのような表現になっているのか、裏を深読みする楽しみがあるんでしょうか?

 

 アクロバティックな部分が非常に少ないというのはちょっとがっかりかもしれませんね。